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第4話 辺境へ

ผู้เขียน: 常陸之介寛浩
last update วันที่เผยแพร่: 2026-08-12 09:12:00

出立の朝、王都には薄い霧が降りていた。

 春も半ばに差しかかっているというのに、夜明け前の空気はまだ冷たい。石畳の上にうっすらと滲んだ湿り気が、屋敷の正門前に並ぶ馬車の車輪を鈍く濡らしていた。

 エーヴェルシュタイン公爵家の者たちは皆、表向きは静かな顔をしていた。

 だが、その静けさの下にあるものが平穏でないことくらい、誰の目にも明らかだった。

 レティシア・エーヴェルシュタインの辺境行きは、正式には「旧所領視察および静養」とされた。王城からも、それに異を唱える言葉は来ていない。むしろ都合が良かったのだろう。王太子婚約解消の余波が王都でさらに広がる前に、当の本人が自ら表舞台から退いてくれるのだから。

 けれど、屋敷の前に並ぶ荷馬車の数は、いかにも「静養」にしては多かった。

 衣装箱は最小限だ。だが代わりに、帳簿箱、地図箱、封書箱、古い契約書の控えを納めた箱がいくつも積まれている。旅装の侍女たちよりも、書記官と執事補佐の顔ぶれの方が多い。およそ傷心の令嬢が遠地へ休みに行く姿ではなかった。

「お嬢様、こちらの箱は最後尾へ積ませました」

 老執事のハルトマンが、厳しい顔のまま報告した。白髪の混じった髪を撫でつけ、何十年も公爵家に仕えてきた男である。普段は滅多に感情を表へ出さないが、今朝ばかりは声の奥に固いものがあった。

「ありがとう。地図箱は?」

「二台目の馬車に。いつでも取り出せるようにしております」

「ええ。それで良いわ」

 レティシアは旅用の濃紺の外套を肩に掛けたまま頷いた。装いは簡素だが、その簡素さもまた上質で、かえって彼女の育ちを際立たせている。腰まで届く淡い金髪は普段よりきつく編み上げられ、揺れにくいようにまとめられていた。王都の舞踏会に立つ令嬢ではなく、長旅に備える者の身支度だ。

 門前には父クラウス、母ヴィクトリア、そしてエミリアの姿もあった。

 別れの場としてはひどく簡素である。大仰な涙も、大勢の見送りもない。王都の有力者たちはあえて姿を見せなかったし、公爵家もまた、それを望まなかった。ここで誰かが情の深い芝居をすればするほど、王都での噂に余計な餌を与えることになる。

 それでも、家族の間に流れるものまで消せるわけではない。

「準備は整ったようだな」

 父が言う。

「はい、お父様」

「現地へ入るまでは、お前の立場はあくまで旧所領視察の代理だ。だが着いてしまえば、実際に場を回せる者はお前しかいない。何かあれば、ためらわず公爵家名義で押し切れ」

 それは餞別の言葉であり、同時に仕事の引き継ぎだった。

「承知しております」

「あと、向こうの代官は頼りになるとは言い難い。帳簿の数字を鵜呑みにするな」

「ええ。すでにそのつもりです」

 父は短く頷く。

 言うべきことはそれで足りたのだろう。それ以上、感傷を交える男ではなかった。

 母は、昨夜よりもさらに整えた顔で立っていた。だが手袋に包まれた指先が、わずかにきつく組まれている。

「寒い土地だそうよ」

 ようやく口を開いた声は、努めて平静だった。

「厚手のショールをもう二枚入れておきました。あと、向こうの水は硬いと聞くから、最初の数日はお茶を薄めに淹れさせなさい」

「ありがとうございます、お母様」

「食事も無理をして食べないこと。北方は塩が強い料理が多いそうだから、最初は胃を壊すかもしれません」

 言っていることは細かな生活の注意ばかりだ。

 けれどそれが、いま母にできる精一杯なのだとわかった。

「気をつけます」

 ヴィクトリアは何かほかのことも言いたげだった。けれど結局、「手紙を出しなさい」とだけ小さく付け加えた。

「できるだけ早く」

「ええ」

 エミリアは少し離れた場所に立っていた。

 薄青の外出着に身を包み、昨日までよりも明らかに大人しく見える。王太子に選ばれた少女の晴れやかさは、もうそこにはなかった。代わりにあるのは、何か言いたいのに言葉を見つけられない者の不安だけだった。

 レティシアが目を向けると、エミリアは一歩だけ近づいた。

「お姉様……」

「何かしら」

「……元気でいてね」

 言葉を選びに選んだ末に、ようやく出てきたのがそれだったのだろう。

 レティシアは少しだけ目を細める。

「あなたも」

 短いやり取りだった。

 それ以上の言葉は、今ここではかえって軽くなる。

 やがて御者が出発の合図を待つように視線を寄越し、ハルトマンが静かに咳払いをした。

 時間だった。

 レティシアは最後に屋敷を振り返った。幼いころから見慣れた白い石造りの正門、季節の花を欠かさぬ庭、朝の光を受けて静かに立つ窓列。そのどれもが変わらないように見えるのに、今日からはもう自分の居場所ではなくなるのだと、不思議なほど冷静に理解していた。

 未練がないわけではない。

 ただ、それを抱いたままでも馬車は進む。

「では、行ってまいります」

 そう一礼し、彼女は最前の馬車へ乗り込んだ。

 扉が閉じられる。

 車輪が軋む。

 ゆっくりと、王都の石畳が後ろへ流れ始める。

 こうしてレティシア・エーヴェルシュタインは、王都を離れた。

 王都の朝は早い。

 貴族街を抜けるころには、通りの端で働き始めた給仕や下働きの姿が見え、遠くで鐘の音が幾重にも重なっていた。やがて高い屋敷の塀が減り、代わりに商人の荷車や職人の小屋が増え、街の匂いも変わっていく。焼きたてのパン、馬の汗、濡れた石、まだ開き切らぬ市場の野菜の青臭さ。

 レティシアは窓の小さな隙間からその変化を見ていた。

 王都の中心は、あまりにも整えられている。そこに長くいたせいで、少し外へ出るだけでも、国の継ぎ目が見えるような気がした。

 同乗しているのはマルタとハルトマン、それに若い書記官ルイスだった。ほかの護衛や荷馬車は前後に分かれている。

 しばらく無言が続いたあと、ハルトマンが控えめに口を開く。

「お嬢様、体調が悪くなられたらすぐにお申しつけください」

「平気よ」

「昨夜からほとんどお休みになっておられませんでしたから」

「眠れないからといって、旅程は待ってくれないでしょう」

 そう返すと、老執事は困ったように口を閉じた。

 マルタがその横でそっと茶筒を押しやる。

「温かいうちにどうぞ」

「ありがとう」

 旅用に簡易に淹れた茶は、屋敷で飲むものより少し渋い。それでも口に含むと、胸の奥がようやく旅の現実に追いついてくる気がした。

 王都の外門をくぐるころには、霧はかなり晴れていた。

 背後に遠ざかる城壁は白く高く、まだ朝の光を浴びて輪郭だけを鋭くしている。門前には税の確認を受ける荷馬車の列があり、その一台一台を衛兵が検めていた。平時の見慣れた光景――のはずだった。

 だが、レティシアは小さく眉を寄せる。

 列が長い。

 しかも流れが悪い。

 通常、この時刻なら王都へ入る荷と出る荷はもう少し滑らかに捌ける。だが今日は、穀物を積んだ荷車が二台も門前で止まり、その後ろで羊毛の荷が足止めされていた。衛兵の動きもどこかぎこちない。

「……遅いわね」

 思わず漏れた言葉に、ルイスが顔を上げる。

「何がでございますか?」

「門の処理」

 レティシアは窓から視線を外さずに言う。

「本来なら、あの列の左側は生鮮と穀物を優先して通すはずよ。朝の市場へ間に合わせる必要があるから。ああして混ぜてしまうと、街の内側で価格が乱れやすい」

 ルイスは慌てて窓から覗いたが、彼には単なる荷車の列にしか見えないらしい。

「そのような決まりが……」

「決まりというより、慣例ね。明文化されていなくても、そうしておくと都合が良いから続いていたの」

 ハルトマンが低く唸った。

「今朝は、その慣例を指示する者がいないのやもしれませんな」

 レティシアは答えなかった。

 だが胸の内では、ほんのわずかに何かが引っかかった。

 自分がいなくなったからすぐにこうなった、などと思い上がるつもりはない。門一つの処理くらい、誰かが調整すれば済むことだ。けれど、調整というものは「誰かが」では回らない。何を優先し、何を後に回し、その理由をどこへどう通すかまで含めて、誰かが見ていなければならないのだ。

 王都を出て最初の宿場へ至る道は、まだよく整備されていた。

 石畳が土道へ変わっても、主要街道だけあって幅は広く、側溝もある。荷車がすれ違うたびに乾いた土が舞い、街路樹の若葉がその上を渡る風に揺れた。

 午前のうちは順調だった。

 だが、王都から二つ目の小さな関所を越えたあたりで、またもレティシアは目を細めた。

 街道脇に、止まったままの荷馬車が目につくのだ。

 一台、二台ではない。修理中のものもあれば、ただ人が荷を下ろしているだけのものもある。護衛の数も少ない。さらに妙だったのは、北へ向かう荷より南へ下る空荷の方が多いことだった。

「ハルトマン」

「はい」

「あの馬車、見える?」

「ええ。車軸でもやられたのでしょうか」

「それだけならいいのだけれど」

 レティシアは窓の外を指で示した。

「荷の積み方が軽いわ。北へ向かうなら、本来は塩や布、鉄具、保存食をもっと積むはずよ。あれでは宿場一つ分の商いにもならない」

 ルイスがまた不思議そうな顔をする。

「北は寒い土地ですから、運ぶ量が少ない方が楽なのでは……」

「楽かどうかで荷は動かないわ。利益が出るかどうかで動くの。北へ向かう荷が痩せているということは、向こうで買う力が落ちているか、あるいは途中で何かが抜かれているかよ」

 ルイスは黙った。

 書類の中だけで見ていた「流通」が、主人にとっては目の前の景色と結びついていることに、まだ慣れていないのだろう。

 昼過ぎ、一行は中規模の宿場町へ入った。

 ここは本来、北へ向かう商人たちでそこそこ賑わうはずの場所だ。街道に面した宿や厩舎が並び、荷馬車の修理屋と塩漬け肉の店が軒を連ねている。だがその割に、人の活気が薄い。広場にいる馬の数も少なく、荷受け場の男たちが手持ち無沙汰に立っている。

 昼食のために立ち寄った宿でも、それははっきりしていた。

 宿の主人は公爵家の紋章を見て慌てて奥の部屋を整えたが、その顔には営業用の愛想以上に疲れが滲んでいる。出された温かなスープと黒パンは悪くなかったが、野菜が少なく、肉の塩気がきつい。物資の偏りがそのまま皿に出ているようだった。

「今季は商いが芳しくないの?」

 食後、レティシアがさりげなく問うと、宿の主人は苦笑いを浮かべた。

「へえ、まあ……北へ行く荷も減りましたし、王都へ戻る荷も前ほど実入りがなくて」

「そう」

「昔はこの時期、毛皮や鉱石の話で夜まで騒がしかったんですがね」

 主人はそこまで言って、客の身分を思い出したのか慌てて口をつぐんだ。

「余計なことを申しました」

「いいえ。参考になったわ」

 宿を出るとき、レティシアは裏手の荷置き場にちらりと目をやった。空の樽が積まれたままになっている。北から戻るなら中身は薬草や塩鉱石のはずだが、それが目につかない。代わりに、粗雑な木箱がいくつか置き捨てられていた。箱の側面には見慣れない商会印。王都系の大商会ではない。

 街道へ戻る馬車の中で、彼女はルイスに紙を取らせた。

「書き留めて」

「はい」

「第一。王都外門の荷捌きが遅い。第二。北行きの荷量減少。第三。宿場における荷受け場の稼働率低下。第四。見慣れない商会印の流入」

「……これは、報告書ですか?」

「まだ違うわ。気づいたことの列挙よ」

「それを今のうちから?」

「今のうちだからよ」

 その言葉は、旅に出たというより、すでに仕事が始まっていることを示していた。

 午後、空は次第に高く晴れ渡った。

 王都周辺の柔らかな緑は徐々に背を低くし、代わりに岩混じりの地面や、風にさらされた灌木が目立ち始める。道の左右に広がる畑も、王都近郊のように整然とはしていない。耕されている区画と放置された区画がまばらに入り混じり、遠目にも手が足りていないのがわかる。

 途中、小さな橋を渡る際に馬車が一度大きく揺れた。

 御者が手綱を引き、慎重に通したが、橋板の一部が明らかにたわんでいる。

「止めて」

 レティシアの声で一行が足を止めた。

 護衛たちが一斉に身構える中、彼女は外套の裾を上げて橋へ降りる。マルタが慌ててあとを追い、ハルトマンは顔をしかめながらも何も言わない。

 橋板の縁に膝を折り、レティシアは指先で木肌を押した。湿り気が強い。補強の釘もいくつか浮いている。応急処置だけで何年も繋いだ橋だ。

「……春の増水を越えたら、次は危ないわね」

 呟きに、後ろから護衛の一人が言った。

「お嬢様、この程度の橋は辺境では珍しくもありません」

「ええ。だから放置されるのよ」

 レティシアは立ち上がる。

「重い荷馬車が連続すれば、車輪が一本落ちるかもしれない。そうなればここで半日、場合によっては一日流れが止まる」

 彼女は川筋を見た。水は浅く見えるが、ぬかるみが強い。落ちれば荷を救い出すだけでも大仕事になるだろう。

「ルイス、これも書いて。南北街道第三石橋、板材劣化。仮補修では限界」

「は、はい」

 橋を渡り終えたあと、ハルトマンが低い声で言った。

「まだ北の入口にも届かぬうちから、この有様ですか」

「入口だからこそ、よ」

 レティシアは馬車へ戻りながら答える。

「中心から近い場所がこれなら、遠い場所はもっとひどいはず」

 その言葉に、同行の者たちは誰も返事ができなかった。

 夕刻前、一行はその日の宿泊予定地に着いた。

 王都から数えれば三つ目の大きな宿場で、ここから先は北へ向かうほど街の間隔が広くなる。宿はそれなりにしっかりした造りだったが、門柱の片側が欠け、厩舎の屋根も継ぎ接ぎだ。繁盛しているならもう少し手が入っていてもいい。

 部屋へ入る前に、レティシアは中庭へ視線を巡らせた。

 護衛の装備がまちまちだ。

 修理されていない鞍が目立つ。

 水桶の数が不足している。

 そして、旅人たちの会話の端々に「北はもう駄目だ」「戻った方が早い」という響きが混じっている。

 それらを一つひとつ拾いながら、彼女は部屋へ通された。

 窓の小さい部屋だった。王都の屋敷と比べるべくもないが、寝台は清潔で、暖炉もある。マルタが手早く荷を解き、旅装から少し楽な衣服へ替える支度を整える。

「お嬢様、本日はもうお休みになられた方が」

「その前に、今日見たことをまとめるわ」

 レティシアはそう言って机に向かった。

「……やはり」

 マルタが半ば諦めたように呟く。

「休んでも、気づいたことは待ってくれないもの」

 インク壺を開き、紙を広げる。隣にはルイスが呼ばれ、緊張した面持ちで筆記の準備をする。

「まず、街道物流における異常の兆候。王都外門の処理遅延、北行き荷量の減少、宿場稼働率の低下、橋梁補修不足……」

 レティシアの声は落ち着いていた。

 だが、その落ち着きの下で、彼女の思考は既に走り始めている。王都を出たばかりの今日一日だけでも、見えた綻びは一つや二つではなかった。これらはまだ表層だ。もっと北へ行けば、さらにはっきり形を取るだろう。

「次に、物価傾向について。昼食の宿における食材の偏り――」

 ルイスが必死に筆を走らせる。

 記録は旅日記ではない。調査報告の下書きに近かった。

 すべてを書き留め終えるころには、窓の外はもう薄暗くなっていた。街道の宿場らしく、下の食堂からは旅人たちの低い笑い声と、食器の触れ合う音が上がってくる。どこにでもある、平凡な旅の夜のはずだ。

 だがレティシアにとっては、その平凡さの中にこそ異常が潜んでいた。

「お嬢様」

 書き終えたルイスが、少し躊躇いながら尋ねる。

「……もう、辺境は思ったより壊れている、とお考えですか」

 レティシアは少しだけ首を傾けた。

「辺境だけではないわ」

「え?」

「壊れているのは、もっと手前からよ」

 彼女は窓の外を見た。夕闇の向こうに、北へ続く道が細く消えていく。

「辺境はただ、最後にそのしわ寄せを受けるだけ」

 それが真実だった。

 王都はまだ華やかで、美しく、整って見える。だがその美しさを支える小さな調整がいくつもほころび始めている。門の処理、荷の流れ、橋の補修、宿場の稼働。どれもそれ自体では些細だ。だが些細なものが積み重なった先に、国の行き詰まりは現れる。

 レティシアはそっとペンを置いた。

「思ったより、壊れているのは辺境だけではなさそうね」

 誰に聞かせるでもなく零したその言葉は、静かな部屋の中で小さく沈んだ。

 その夜、宿場町の空には星がよく見えた。

 王都では高い建物と灯りに隠れてしまうような細かな星まで、北へ向かう空には冴えている。旅の一日目を終えた疲れは確かにあった。だがそれ以上に、レティシアの胸には奇妙な覚醒があった。

 王都を失ったのではない。

 王都の外側にある、本当の国の姿へ踏み込み始めたのだ。

 その予感だけが、寒い夜気の中で静かに熱を帯びていた。

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